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●年間第3主日(神のことばの主日)キリスト教一致祈祷週間(1/18-25)
聖書箇所:ネヘミヤ8・2-4a, 5-6, 8-10/Iコリント12・12-30/ルカ1・1-4, 4・14-21
2022.1.23非公開のミサにて
ミサのはじめに
南相馬市での新型コロナウイルスの急激な感染拡大に伴い、2月6日までの3週間、この教会では公開での主日のミサを中止することになりました。福島県はまん延防止等の適応を国に求めていますから、この期間はもっと延びることになるかもしれません。厳しい状況ですが、今日は年間第3主日、「神のことばの主日」とされています。キリスト者が(ミサに与かれる人も与れない人も)、聖書=神のことばを大切にして信仰と希望と愛をもって歩んでいくことができますように。そして新型コロナ感染症と戦う人々、その影響で苦境に立たされている人々が守られますように。新型コロナのパンデミックが早く収束しますように、このミサの中で心を合わせて祈りましょう。
ホミリア
年間第3主日は「神のことばの主日」とされています。フランシスコ教皇は2019年9月30日の教皇書簡「アペルイト・イッリスAperuit illis」によって、この日を「神のことばの主日」とすると発表し、翌2020年1月から「神のことばの主日」が始まりました。今年は3回目ということになります。ちょうどこの2020年の初めから、わたしたちは新型コロナのパンデミックを経験してきました。その経験の中でもう一度、神のことばである聖書を見つめ直すよう、招かれていると思います。
第二バチカン公会議以降、特別に神のことばと秘跡の結びつきの重要性が語られるようになりました。コロナ・パンデミックの中で、なかなか秘跡に近づくことができないということをわたしたちカトリック信者は体験しました。ミサ・秘跡は大きな打撃を受けました。しかし、神のことばはコロナウイルスに縛られません。大声で朗読したり、詩編を歌ったりすることはできませんが、聖書を目や点字で読むこと、パソコンやスマートフォンをとおして、読んだり聞いたりすることはできるのです。
わたしたちはこのチャンスをどう活かしてきたでしょうか?
そう振り返りながら、今日の福音を改めて、しっかりと受け取りましょう。
イエスが朗読されたのは、イザヤ61章の言葉でした。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」
ここにイエスの使命がはっきり示されます。それは貧しい人に福音を告げ知らせることです。「貧しい」というのは経済的に圧迫されているだけでなく、さまざまな面で苦しめられ、小さくされている人のこと。この箇所に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含んでいます。その人々に神の恵みが注がれ、圧迫から解放される。それが福音です。福音とは「eu(良い)angelion(知らせ)=良いニュース」のことです。苦しむ人々が長い間待ち望んでいた神の救いが今まさに実現する、これが良いニュースの内容です。
「悪いニュース」が多いのがこの頃です。国と国との対立の激化、覇権争い、軍備拡張。専制政治による人権侵害、新型コロナウイルスの急拡大や世界各地で起こる災害。格差と排除、貧困。そして自暴自棄になった人による無差別殺傷事件。その中で多くの人々は苦しんでいます。本当に悪いニュースが多いのです。
「日本人が金メダルを取った」というと、「久しぶりに明るいニュースです」という人がいますけれど、そんなのは本当の「良いニュース」ではありません。スポーツで誰かが勝てば、誰かが負けているのです。自分に近い人が勝った、というのが「良いニュース」だなんてとんでもないことでしょう。聖書のいう「福音=良いニュース」とはそんなものではありません。
「神の国は貧しい人のものである」
「平和を作る人は神の子と呼ばれる」
「神は愛である。」
「神は独り子を与えるほど、世を愛してくださった」
「十字架で死んだイエスは、死に打ち勝ち、世の終わりまでわたしたちと共にいる」
「愛は決して滅びない」
こういうのが良いニュースなのです。貧しい人に救いがもたらされる。そこでは誰も負けることなく、誰も排除されることがありません。聖書の中には、この良いニュースが満載されています。わたしたちはこの「良い知らせ」を聞くためにこそ聖書を読むのです。
イエスは徴税人ザアカイに、「今日は是非、あなたの家に泊まりたい」と言葉をかけられました。十字架上で回心した盗賊には「今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この「今日」は特徴的で、救いが今この瞬間に実現することを強調しています。そして、今日の福音にも「今日」という言葉が出てきます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
フランシスコ教皇は、「Aperuit illis」の中でこの箇所を引用して、こうおっしゃっています。「神のことばから日々の糧を引き出す人々は、イエスがそうであったように、彼らが出会うすべての人々と《今を共有する人》 (contemporary)になります。彼らは過去についての実りのないノスタルジーや、 まだ訪れたことのない実体のないユートピアの夢に陥る誘惑に遭うことがありません。」(Aperuit illis 12)聖書の言葉をしっかりと受け止めるとき、福音が、神の救いが、神の恵みが「今」となる、と言うのです。
いったい何が変わるのでしょうか?
それは、今のこの世界を、神のいつくしみのうちに見るようになるということです。そして、今の世界をわたしたちが信仰と希望と愛をもって生きるべき世界として見るようになるのです。わたし自身の人生も、日々、神の愛のうちに生き、信仰と希望と愛をもって生きる人生となるのです。そのためにこそ、わたしたちは聖書を、神のことばを読み、味わい、生きようとします。
コロナ禍だからこそ、聖書を読みましょう。そして聖書を読むたびに今日のイエスの言葉を思い起こしましょう。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した!」アーメン。